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モルモン教はキリスト教か? この質問は若干のクリスチャン同様、多くのモルモン教徒にとっても困惑させるもののようだ。モルモン教徒は、自分たちが認める4巻 の正典の中に、聖書も含まれていると主張する。また、「末日聖徒イエス・キリスト教会」の正式名称が示すように、イエス・キリストはモルモン教徒の信仰の 中心であるとする。 更に、多くのクリスチャンはモルモン・タバナクル・クワイヤーがクリスチャンの賛美歌を歌うのを聞いているだろうし、モルモン教徒の 道徳性の高さや家族の絆の強さに好印象を抱いている。しかし、こうしたことから、果たしてモルモン教はキリスト教だと言えるであろうか。
この疑問は、モルモン教の根本教義と既成の聖書的キリスト教の根本教義を綿密に比較検討することで公平に、また正確に答えられる。ここでは、モルモン教の立場を説明するため、良く知られている以下のモルモン教義の文献を引用した。 最初の4冊はモルモン教会の公式刊行物である。『福音の原則』と『永遠の結婚』以外はすべて英語版を参照した。(1)『福音の原則』(2003年) (2) 『永遠の結婚』(2004年) (3) Achieving a Celestial Marriage (1976年) (4) モルモン教使徒ジェイムズ・E・タルメージ, A Study of The Articles of Faith (1979年) (5) 第十代 モルモン教大管長、預言者ジョセフ・フィールディング・スミス, Doctrines of Salvation (全3 巻) (6) モルモン教使徒ブルース・R・マッコンキー, Mormon Doctrine (第2版, 1979年) (7) ジョセフ・フィールディング・スミス選, Teachings of the Prophet Joseph Smith (1976年)
1. 唯一のまことの神以外に神がおられるのか?
聖書が明示し、また保守的クリスチャンが昔から信じてきた教えは、以下のとおりである。「主は、唯一の生けるまことの神である。 主以外には神はいない」 (申命記6:4;イザヤ43:10,11; 44:6,8; 45:21,22; 46:9; マルコ12:29-34)。
これに反して、モルモン教会では、多くの神が存在していることになる (『アブラハム書』4:3ff)。 信者は「日の栄えの王国」で神々、女神になることができると教えられている (『教義と聖約』132:19–20;『福音の原則』243頁;『永遠の結婚』31頁)。ちょうど聖書で父なる神が礼拝されるように、神々になったものは、自分たちが生み出す霊の子供達に礼拝を受けるともされている (『福音の原則』300頁)。
2. 神はかつてわれわれのような人間であったのか?
聖書が教え、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「神は霊である」 (ヨハネ4: 24; 1テモテ6:15,16)。「神は人間ではない 」 (民数記23:19; ホセア書11: 9; ローマ1:22,23 )。「神は永遠から永遠に存在され、全知、全能で、偏在される」(詩篇90:2; 139:7-10; イザヤ40:20)。
これに反して 、モルモン教会では、父なる神はかつてはわれわれのような人間であり、昇栄した(注:進歩した)人で、骨肉の体を持つと教えられている (『教義と聖約』130:20;「神はかつてはわれわれ人間のようであり、今は昇栄し、昇格した人であり、はるかかなたの天の王座に座しておられる!」¾ Teachings of the Prophet Joseph Smith,pp.345-347引用; 『福音の原則』9頁; Articles of Faith, p.430; Mormon Doctrine, p.321)。 モルモン教会は、神には父がおり、更に祖父と、 曽祖父など、無限の先祖たちがいるとも教える (Teachings of the Prophet Joseph Smith,p.373; Mormon Doctrine, p.577)。
3. イエスとサタンは霊的兄弟か?
聖書が示し、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「イエスは唯一神の御子であられ、神として常に存在され、父なる神とともに永遠にあり、同格であられる」 (ヨハネ1:1,14; 10:30; 14:9; コロサイ2: 9)。 神より劣る存在ではないのに、定められたときにイエスは父なる神とともにあった栄光を捨て去り (ヨハネ17:4,5; ピリピ2:6-11) 、われわれの救いのために人間の姿になられた。イエスは、聖霊により 超自然的に乙女マリアの胎内に宿り、人間としてお生まれになった (ヨハネ1:18-23;ルカ1:34.35)。
これに反して、モルモン教会では、イエス・キリストは、初めに、「天父」と「天母」の間に霊の子として生まれ、神へと進化した私たちの長兄と教える (『福音の原則』11頁; Achieving a Celestial Marriage, p.129; Mormon Doctrine, p.129)。 イエスは、後に「天父」と処女マリアの間の性交渉によって生まれたとも教える (Mormon Doctrine, pp.546–547; 742)。モルモン教義はイエスとサタンは兄弟と断言する (『福音の原則』17-18頁; Mormon Doctrine, p.192)。
4. 神は「三位一体で」はないのか?
聖書が示し、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「父、子、聖霊は別々の神ではなく、お互いに独立した存在でもなく、それぞれが人格を持っていながら一体となっておられる。」 新約聖書の至る所で、父、子、聖霊は人格的に区別されているが、それぞれ、神として働いておられる (御子に関する聖句―マルコ2:5-12; ヨハネ20:28; ピリピ2:10,11; 聖霊に関する聖句―使徒5:3–4; 2コリント3:17,18; 13:14)。 しかも、聖書は、一体となった父、子、聖霊を唯一の神であると教える(1参照)。
これに反して、モルモン教会は、父、子、聖霊は、三人の別々の神であり(Teachings of the Prophet Joseph Smith, p. 370; Mormon Doctrine, pp.576-577)、子と聖霊は、文字通り「天父」と「天母」の間の子と教える(ジョセフ・フィールディング・マッコンキー, Encyclopedia of Mormonism, 第2巻, p. 649)。
5. アダムとエバの原罪は、悪かそれとも祝福か?
聖書が明示し、また保守的クリスチャンが昔から信じてきた教えは、以下のとおりである。「人類最初の両親であるアダムとエバが神の命令に背いたことは罪である。 その堕落を通じて、罪がこの世に入り、すべての人間が有罪宣告を受けされ、死がもたらされた。」このようにして、われわれは罪の性質を持って生まれた者であり、それぞれが個人的に犯した罪のため裁かれる (エゼキエル18:1-20; ローマ5:12-21)。
これに反して、モルモン教会は、アダムの堕落は「生命の計画において欠くことのできない段階であり、同時に人類にとって大きな祝福であった」と教える (『福音の原則』33頁;『モルモン書 ― 2 ニーファイ』2:25; Doctrines of Salvation,vol.1,pp.114-115)。
6. われわれは神の救いにふさわしい者となれるのか?
聖書が教え、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「イエス・キリストの十字架上での救いの御業を信じない者は、霊的に「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」である」 (エペソ2:1, 5―口語訳)。「私たちは、自分で自分を救うことはできない。 功績や自分自身の正しい行いによってではなく、ただ恵みにより神は私たちの罪を赦して下さり、ご自身と交わりを与えて下さる」 (エペソ2:8–9; テトス3:5–6)。 私たちのすべきことは、心からキリストを信じ、キリストにすがりつくことだ (勿論、行動の変化が伴わない信仰は、疑わしいものだと言わざるを得ない。 神の恵みのゆえに信仰によって救われた者は、好き勝手な人生を歩んでも良いというわけではない — ローマ6:1-4)。
これに反して、モルモン教会では、 神から永遠の命を与えられるためには、(「日の栄の王国での昇栄」と呼ぶ) 排他的なモルモン神殿での儀式を含む、モルモン教会のすべての戒律を守ることが義務づけられている。行いは、(いわば「日の栄え」の入り口で) 救いに欠かせない (『福音の原則』301-302頁;『高価な真珠 — 信仰箇条第3』; Mormon Doctrine, pp.339, 671;『モルモン書 —2 ニーファイ』25:23)。
7. キリストの贖いの死は、キリストを拒絶した者にも恩恵があるのか?
聖書が示し、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「キリストの十字架上での贖いの御業は、人類の罪という問題に対する完全な解決を提供する。しかし、この世で神の救いの恵みを拒否する者は、救いに預かることなく神の永遠の裁きにあう」 (ヨハネ3:36; ヘブル9:27;1ヨハネ5:11–12)。
これに反して、モルモン教会は、贖いの目的は、信仰によってキリストを受け入れるかどうかには無関係に、復活と不死をすべての人にもたらすためであると教える。 永遠の命を得るためには、キリストの十字架上の贖いを信じるだけでは不十分で、モルモン神殿での排他的儀式を含む、モルモン教会のすべての戒律に対する服従も求められる (『福音の原則』75頁; Mormon Doctrine, p.669)。
8. 聖書は、完結した神の言葉ではないのか?
聖書が明示し、また保守的クリスチャンが昔から信じてきた教えは、以下のとおりである。「聖書は、唯一の完結した神のみことばである」 (2テモテ3:16; ヘブル1:1,2; 2ペテロ1:21)。 「また、神のみことばは、とこしえに変わることがない」 (1ペテロ1:23-25)。 神の摂理によって現在ある聖書がいかに原本に忠実に継承されて来たかは、死海写本*の発見で説明される。
これに反して、モルモン教会は、聖書は人間の手が加えられ、多くの「分かりやすくて貴い部分」が失われており、完全な永遠の福音は含まれていないと教える (『モルモン書 ―1 ニーファイ』13:26-29; Doctrines of Salvation, vol.3 pp.190-191)。
9. 初代教会は、大背教に陥ったのか?
聖書が示し、また正統派のクリスチャンが昔から信じてきたことは、以下のとおりである。「真の教会は、イエスによって、神の権威を受けて設立され、地上から姿を消すことは、決してなかったし、これからも決してない」 (マタイ16:8; ヨハネ15:16; 17:11)。 クリスチャンは、腐敗や異端が教会内に起こったことは認めるが、聖書的基本に忠実であった人間がいつの時代にもあったことを信じる。
これに反して、モルモン教会は、イエスによって設立された真の教会に、「大背教」があったと教える。 この背教の状態はモルモン教会の「回復された福音の知識を受け入れた人をのぞいて、今なおはびこっている」とする (『福音の原則』104,105頁; Mormon Doctrine, p. 44)。
結論
これまで斜体で書かれた箇所は、教団・教派を超えて、保守的クリスチャンが昔から信じてきた福音である。これに反して、モルモン教のような新興宗教は、自 らをキリスト教と主張しながら、聖書以外の正典を認め、聖書に反する教義を教え、イエスと使徒の教えと全く相容れない教えに固執している。
モルモン教徒と保守的クリスチャンは、いくつかの聖書の重要な道徳的教えを共有する。 しかし、上記の通り、正統的、聖書的キリスト教とモルモン教との間 には根本的に和解不可能な相違点がいくつもある。こういった相違は、クリスチャンとモルモン教徒との愛ある交わりを防げるものではないが、クリスチャンは、モルモン教をクリスチャンと認める訳にはいかない。聖書は、特に「異なるイエス」を中心とする「異なる福音」を語り、「異なる霊」によって証をする偽預言者を警戒するように教えている (2コリント11:4;13-15; ガラテヤ1:6-9)。 クリスチャンは今まで示してきた証拠に基づいて、モルモン教は「異なる福音」の一例であると考える。
もし、モルモン教徒が、モルモン教の基本的教理(例えば、ジョセフ・スミスは神の預言者である。モルモン書は、真実で、神の霊感を受けて書かれた。神はかつてはわれわれのような人間であったが、モルモン教会の戒律を守り、儀式を忠実に果たしたことで、昇栄して神となった。 モルモン教会は、神の権威によって設立された)を否定するなら、モルモン教会は、このような人を末日聖徒とは認めない。 モ ルモン教会が教える根本的教理を信じない限り、自らをモルモン教徒と主張することはできない。 同様に、もしモルモン教徒が、歴史を通じてクリスチャンが 信じてきた根本的、聖書的真理を受け入れないなら、クリスチャンはそのモルモン教徒を真のクリスチャンとして受け入れることはできない。
もし、モルモン教会が、自分たちこそ真のキリスト教会だと信じるのであれば、既成のキリスト教界の一派であると公に自己主張すべきではない。 むしろ、モルモン教会は、「正統派だと思っているクリスチャンは、実はクリスチャンではない。モルモン教会こそ、唯一の真のキリスト教会である」と公言すべきだ。 事実、こういった教えは、非公開で教えられているもので、公表されていない。
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